そして夢の終わり

「ただ生きているだけなのに、悲しくなることってあるよね」

 と彼女は言った。
 春の麗らかな日のことだった。庭の梅の木には白い花が咲いて、柔らかな輪郭の影がつらつらと揺れていた。ああ、悲しいな、と僕は思った。でも何が悲しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、そう、感情だけが深く募る。まるで日々の何気ない時間のように。

「きっと生きることは本質的な意味においてはとても悲しいことなのよ。だから嬉しいことや楽しいことが長く続かないと、すぐに悲しくなってしまうのね」

 真新しいスニーカーで地面をこする彼女の影が俯いて、まるで姿で言葉を表しているかのようだった。描かれていない涙を拾うように、彼女は掌をじっと見つめた。
 僕は写真が嫌いだ。撮られることが好きじゃないし、撮ることもほとんどない。たぶん想い出というものに興味がないんだと思う。
 けれどふとした時、世界の一瞬を切り取りたいと思うことがある。きっと誰に見せてもどこがいいのと問われてしまうような風景なんだろうけど、僕にとっては高名な写真家の一枚よりもずっと価値がある。
 その風景の中心には大抵、彼女がいる。
 肩程で短く切りそろえられた髪やいつも手入れされた細長い眉。膨らんだ頬と桜色の唇を、柔和なブラウンの瞳を、僕は切り取りたくなる。
 優しくしたくもなるし、壊したくもなる。
 相反する感情の狭間に落下する時、深い沈黙だけが生まれる。

「頑張らないと何も変わらないのはきっと誰だってわかってるんだよね」

 冬の名残を感じさせる三月の冷たい空気を、鈴の音のような声が震わす。

「でもどのぐらい頑張ったら報われるのかな。頑張るってことは報われることばっかりじゃないよね。頑張っても罵倒されること、頑張っても嘲笑されること、この世界にはたくさんあるよね」

 でも、と彼女は言う。

「でも、頑張らないと生きることは悲しいことだけになってしまうんだよね」

 途切れた言葉を繋ぐように、僕らは庭から離れて川沿いを歩いた。生憎の曇り空から鈍色の光が降り注いで、昨日の雨に濡れた草露が煌いていた。誰に望まれるでもなく。

「猫になりたいな」

 彼女が小さく笑って、僕は笑わなかった。

「それで、幸せになれる?」

 僕が尋ねると、彼女はまた小さく笑った。

「さあ、わかんないや。でも寝ている時は幸せそう」
「人間だってそうなんじゃないかな」
「でも、ずっと眠り続けることは出来ないよね」
「白雪姫にでもならない限りは」
「リンゴが必要だね」
「後で買いに行こう」
「うん」

 その、うん、という一言が物悲しく響いて、僕はまた世界を切り取りたくなる。瞬きを何度も繰り返し、切り刻まれた世界の一瞬をそっと盗み出したくなる。
 今日の夜もただ甘いだけのリンゴを食べる。少しは酸っぱいかもしれない。
 僕達はそれを美味しいという。誰も悲しいとは言わない。でもきっと、少しだけ似ている。

「こんなことばっかり考えてたらさ」

 運動部と思しき集団が掛け声と共に走り去っていくのを待って、彼女は歌うように呟いた。

「きっと幸せになれないんだろうねえ」
「大丈夫だよ」
「どうして?」
「僕もだから」

 僕は笑って、彼女は笑わなかった。

「大丈夫って言わないよ、それ」
「そうかな」
「そうだよ」

 でも、と今度は僕が言う。

「僕達、きっと絶対に幸せにはなれないんだろうけど」

 でも。

「それを一緒に悲しみながら、ドラマとか映画とか見てさ、たまに一緒にゲームしたりしてさ、僕はそれで充分かなって」

 そんなことが出来るのなら、例え世界中の人達が求めている幸せってものが手に入らなくったって、諦めがつく。
 すると彼女が僕の代わりにため息をついて、小さく肩を竦めた。

「また通信簿に書かれちゃうよ。人生に諦観してるって」
「何も問題ない。ほんとのことだから」

 増水して勢いを増した川の流れが白い泡を巻き込んで流れていく。古びた木造の橋の下を潜り、鉄の水門を越え、やがては海へと辿り着くのだろう。色づき始めた桜の匂いが空気に紛れ、微かに鼻先をこする。
 あてのない散歩にも限界はある。誰もいない小さな公園の角を曲がって、反対側の遊歩道を歩き家路へと着く。堂々巡りなのは性に合っている。帰りは手を繋いで帰る。停車したバスの横を通り過ぎる。指先に少し力を込める。不意に汽笛のような音が鳴り響く。まだ悲しみを多く知らない子らが無邪気に駆け抜けていく。彼女が息を吐く。少しだけ肩を震わせる。歩くことに疲れ始める。生きることに悲しくなる。ほっそりとした指先を絡める。僕達は幸せにはなれない。
 きっとこの世界で何もなすことはない。
 でも、それでいい。

「休む?」

 僕が問うと、彼女は少しの沈黙の後、ゆっくりと首を横に振った。

「ううん。帰ろう」

 写真を撮ろうと思った。誰の目にも留まらない、誰も称賛しない、幸せでもない、なんてことのない風景を。
 幸せになろうとして、でもなれなかった証として。

「お腹空いた。朝ご飯を食べよう」

 風が吹いてさらわれた言葉が、梅の花びらと共にひらひらと地に落ちた。
 透き通るような白に埋め尽くされた並木道の中で、彼女が静かに唇を噛んで、僕はそれを見なかったフリをして。
 喜びも悲しみも置き去りにして、僕達は誰かの風景の中をずっと歩いていく。
 そして夢の終わりまで。